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十二月大歌舞伎・昼の部 [舞台]

12月13日 歌舞伎座

このところ毎年12月の歌舞伎座は、8月の納涼歌舞伎とほぼ同じ顔ぶれで、いくら南座に人を取られているとは言え寂しいのは致し方ない。これでは集客ができないと思ったか、宮藤官九郎に歌舞伎を作らせるという大博打に打って出たが、はたしてその成果は?

一・操り三番叟
勘太郎の三番叟、松也の後見
普通の格調高い「三番叟」ものと違って、操り人形の三番叟と、操る(振りの)後見の動きが楽しい一幕。
勘太郎は踊りの上手い人だけあって、高く飛んだりくるくる回ったりと、運動能力の高さを存分に発揮して期待に応えた。ただ、松也ともどもいささか真面目すぎて、堅い雰囲気。もうちょっとユーモラスにやってもよいかと思う。

二・新版歌祭文 野崎村
福助のお光、橋之助の久松、孝太郎のお染、彌十郎の久作、秀調の後家お常

いつも言うが、福助の笑い顔は綺麗じゃない。ましてやこのお光のような、泣き笑いの顔だとどうしようもなくゆがんで醜いくらい。なのだが、今回見ていて、このお光にしてみれば綺麗に微笑んでなんかいられない心情なのだという気がして、不思議とそのゆがんだ笑顔に胸を打たれる気がした。だって好きな男と祝言の直前まで行って、相手に女がいて身を引いて尼になるなんて、恨み言をいくら言っても飽き足らない位なのに、自分さえ我慢すれば全てうまくいくからなんて、そんな健気なこと口では言ってもやっぱり悲しくて悔しくてしかたないから、男を見送った後は号泣してしまう。その気持ちが痛いほどわかる気がしたのだ。ほんとに可哀想なお光ちゃん。しかもこのあと、結局久松とお染はやっぱり心中してしまうわけで、お光の自己犠牲は無駄になってしまう。それを知ったらお光はどうするだろう?芝居では出てこないがその場面を想像してしまう。

福助は、浮き浮きしている前半では、いつもながらちょっと羽目を外しがちで、こっそり眉を隠してみて恥ずかしがったり、訪れたお染に意地悪をしたりするところが行儀悪いが、いかにも田舎育ちの娘の様子は良く出ていて、後半髪を下ろしてからの悲嘆振りとの対比は効いている。後半はしおらしさもありなかなか。だが前回国立での時もそうだったが、駕籠で行く久松を見送るときの素振りや泣き笑いの顔が妙に今風でこのお光にはそぐわない気がする。

恋敵のお染は孝太郎。大店のお嬢さんのおっとりした風情がよく出てお光と対称的。もう少し思い詰めた様子があっても良いか。
久松は橋之助。あまりニンじゃないが、いささか優柔不断な二枚目の様子。
彌十郎の久作も手堅く、物事をわきまえた老人の暖かさがあった。思えばこの久作も、なさぬ仲の子供二人に胸を痛める気の毒な老人である。

幕切れは両花道を使わず、久松は駕籠で花道を、お染と母は舟で舞台上手へ引っ込む形。これだと全然違う方向へ帰って行くみたいで違和感がある。

余談だが、この場のお染の衣装の後ろ襟に付いているびらびらな飾りがなんなのか、昔から気になっていた。先日買った「文楽の衣装」という本の解説で判明。「襟袈裟」というもので、江戸時代後期の京大坂の町娘の装飾品で、もとはあぶらとりの実用品だとか。あまり他の役では見ないのも納得。
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周りには鈴が付いている。可愛い。

三・見替座禅
勘三郎の右京、三津五郎の奥方、染五郎の太郎冠者、巳之助の千枝、新悟の早枝
勘三郎はこういうユーモラスな役は本当に上手い。序盤、なんとか花子の元へ行こうと奥方に頼み込むところで奥方らの反応に一喜一憂する様子が何とも可笑しく、後半戻ってきたところの酔態にいかにもうれしげな様子を見せて笑いを誘う。そして太郎冠者と思っていたのが奥方だとわかった驚愕の様子が絶妙で、開脚で床にへたり込む姿が上手いものだと感心。その後も長袴で床を転げたりするのだが裾が乱れないのはさすが。この人ならもっと羽目を外すかと思ったが、思ったより行儀のよい出来。

勘三郎の行儀が良かったのは、奥方が三津五郎だったからかもしれない。三津五郎はそれほど顔も怖そうに作っていないし、終盤怒って旦那様を追いかけるところもあまり大袈裟にせずにほどほど加減。もう少し、旦那様が好きで好きでの焼き餅焼き、と言う可愛い感じもあっても良いかも。

踊りの名手の勘三郎と三津五郎の共演で、踊りと言うほどのこともないこの演目はちょっともったいない気もしないではない。

四・大江戸りびんぐでっど
宮藤官九郎、通称クドカンが書き下ろした新作歌舞伎と言うことで話題を呼んで、チケットの売れ行きはよいようだ。
こういう作品は、どう評価して良いものか正直さっぱりわからない。普段クドカンの芝居を見ていないから、これがどれほど「クドカンらしい」ものなのかもわからない。私が知ってるクドカンって、何年か前のテレビの「タイガー&ドラゴン」くらいなのよね。あれは面白かったけど。
今風のギャグの連発、特殊メークのらくだならぬぞんび、ことりびんぐでっど、へんてこな歌とダンス、がなるように台詞をしゃべる役者たち。
「駱駝」とか「品川心中」とか落語ネタも入って、わかる人には面白いネタが上手くはめ込まれ、そんな中に「派遣」だの、「生きる屍」だの、「生きてるってどういうこと?」とか脳死臨床まがいまで、いくつかの重いキーワードがぶち込まれていて、でも最後は結局どうなったのかよくわからない。

役者たちは一生懸命やってるんですよ。それはすごくよくわかる。染五郎なんてほんとに体当たりという感じだし。勘太郎はマイケル・ジャクソン風の踊りまで見せるし。ゾンビに扮してる役者たちはメークも大変だろうし、なんと言ってもあの日舞とは違うダンスを何度も踊らされてご苦労様だし。

でも、品がないとかそういうことは置くとしても、これを歌舞伎座で歌舞伎役者で上演しなければならない必然性が感じられない。と言うと、歌舞伎って何?と言う深遠な問になってしまうのだが、クドカンにしろ串田和美や渡辺えり子にしろ、最近歌舞伎を書いたつもりの作家たちは「歌舞伎役者で時代劇をやれば歌舞伎」と思ってるんじゃないだろうか。でもそれは違うだろう?私は、「歌舞伎役者でなければやれないから歌舞伎」だと思う。だから一部の新歌舞伎と言われるジャンルのものも別に新派などでやっても良いんじゃないの、と思うものもある。このクドカンのも別の劇団でコメディの上手い俳優と女優を使ってやれば結構大受けすると思う。
でも歌舞伎座ではね。
役者たちが必死で盛り上げようと頑張れば頑張るほど痛々しいというか、最初は笑っていたけど、だんだん笑えなくなっちゃったなあ。

この日は三階席だったので、周りは若い観客やこれ目当ての歌舞伎ファンでない人も多く、結構受けていたけど、一階のご年輩のお客さんにはどうだったことか。

いみじくも吉右衛門が近著「二代目」の中で「創造には破壊を伴う」と言っているが、それはその通りだろう。
とはいえ新しい歌舞伎を作るのは大切なことだ。でないと本当に文化遺産になってしまう。問題はその方向性と言うことだろうか。
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